「最初、理解するのに苦しみました。私は死んでしまったんだってね。」



あれから半時。

ようやく落ち着いてきた北斗はじっと幽霊の話に耳を傾けていた。

彼の話はこうだった。



いつものように会社を終え、いつものように部下達と酒を飲んでいると、急に胸が苦しくなったのだという。

そして気がついたらこの店の中でひとりぽつんと佇んでいたのだ。

見慣れた風景に見慣れた人混み。

しかし何故か彼はここから動けなくなってしまっていた。

夜になり見知った常連客が店に来ても誰も自分の声に気づかない、姿さえも気づかれる事がない。

途方に暮れてしかし気づいて欲しくて、彼はとうとう暴れてしまった。

体の中で荒れ狂う感情をそのまま外にぶつけた。



弾けるグラス。

宙に浮く椅子。

吹き飛ぶテーブル



そこにいた人々は恐れ戦きみんな店から逃げてしまった。

そして散々暴れまわった彼は……。



また一人になっていた。



どうしたら良いんだと、また途方に暮れている時、兇が現れた。

そして兇は根気良く丁寧に彼を説得したのだという。



「妻も子供もいますからね、決心が着くのに時間がかかってしまいました。」



湯気の昇る湯飲みを持ちながら苦笑する紳士は、話の中で言っていた困惑のような感情は一切感じられなかった。

ただ静かに、ゆっくりと北斗に説明してくれていた。

そんな彼を北斗と兇はじっと聞き入る。

そんな二人に紳士はにっこりと笑顔を向けた。

「本当にありがとうございます。こうやって話を聞いてくれただけでも凄く心が軽くなりました。」

「いえ、僕は何も。」

謙遜して首を振る兇を紳士はやんわりと首を振って否定した。

「いいえ、貴方がいたから私は自我を保てたのです、あのまま一人でいたらと思うと……。」

紳士の言葉に北斗は知らず身震いしていた。



――この人も兇君がいなかったら……。



そう、きっと北斗が出会った悪霊たちと同じになっていたであろう。

今まで遭った悪霊たちは皆、人を恋しがっていた。

恋しくて恋しくて……そして悪霊になる。



――この人ももしかしたら……。



その可能性に北斗は戦慄し、ふるりと震えた。

そして改めて兇のここへ来た意味の重さを知る。

ここへ兇が来なかったら、きっと今頃は……。

北斗は胸中でそう思いながら話し込む二人を見つめるのだった。



「それではいいですか?」

「はい」

割れた窓から光が差し込む中。

ちりーん、ちりーんと澄んだ鈴の音が響き渡る。

透き通った霊体がゆっくりと光を放っていく。

以前一度見た美しいその光景に北斗は、ほぉっと吐息を漏らした。

「これを、妻に……向こうで待っていると。」

「わかりました」

紳士は消える寸前、薬指に嵌めていた結婚指輪を兇に渡すとそのまま差し込む光に吸い込まれるように消えていった

そして鈴の音が最後の音を鳴らして止まった。

静まり返る店内。

暫くして、幽霊の消えた店の中は薄暗くなっており、窓から差し込む光が随分弱々しいものに変わっていた事に気づいた。

「さ、これを届けて帰ろう。」

兇は北斗の方へと振り返ると、手の中に残っていたそれを見せながら微笑む。

そこには



あの幽霊が残していった本物の結婚指輪が乗っていた。



オレンジ色の夕焼けが長い影を作り出すその時間。

北斗と兇は家路についていた。

ふと立ち止まり振り返る。

「どうしたの?」

突然立ち止まった北斗に兇が不思議そうに声をかける。

「うん、あの幽霊さん、ちゃんと行けたかなぁって思って。」

その言葉に兇の顔が優しいそれへと変わる。

「うん、ちゃんと送ったから大丈夫だよ。」

「本当!?」

「うん、本当」

「そっか」

「うん」

くすりとお互い笑い合うと、そのまま踵を返してまた歩き始めた。



「兇君」

「なに?」

「幽霊って色々あるんだね。」

歩き始めた兇に北斗が問いかける。

じっと見つめてくるその顔は恐怖に引き攣ったそれではない。

「うん、色々あるよ。今日みたいに自分が死んだ事もわからなくてああやって自縛霊になちゃった人とか。」

「そっか、悪霊だけじゃないんだね。」

「うん、だから俺が……鈴宮家が守っていかないと。」

兇の言葉に北斗は嬉しそうに頷く。

そして



――兇君の……鈴宮家ってどんな家系なんだろう。



北斗の心には兇への称賛と、鈴宮の家への関心が更に深まったのだった。



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