ゆらりゆらりと揺らめくそれは実体のない影。
北斗達の目の前に現れたのは、案の定幽霊だった。
――や、ややややっぱり!
北斗は頬を引き攣らせながら胸中で絶叫する。
この店に入ってから薄々気づいていた事であったが
しかし
先程の兇の行動と、目の前の幽霊の出現とがどうにも噛み合わない様に思えて北斗は暫しの間ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「那々瀬さん、どうしたの?」
そんな北斗を現実に引き戻したのは他でもない兇だった。
「え」
「そんな所にいないでこっちにおいでよ」
反射的に顔を上げると、屈託のない笑顔の兇と目が合う。
そして当たり前のように手招きしてくる兇の右横側を見て北斗は更に複雑な表情を浮かべた。
――おいでって言われても……。
兇の隣。
湯気の昇る湯飲みを持った幽霊がちょこんと正座していた。
それは紛れも無く先程煙のように現れた幽霊で。
しかも兇同様、自分に向かって屈託のない笑みを向けながらこちらを見ているではないか。
――何がなんだか……。
意味がわからないまま、北斗は仕方なくゆっくりとそのブルーシートの上に靴を脱いで上がったのだった。
そして幽霊とは反対側。
兇の左隣へとちょこんと正座したのである。
ちらりと向かいを見ると……
にっこりと微笑まれた。
――ゆ、幽霊に微笑まれた!!
初めての経験に北斗は内心パニックになる。
今までの霊との思い出といえば、家を火事にされたり、暗い穴の中に引きずり込まれそうになったり、更には命まで狙われたりと暗い経験しか記憶に無い。
そんな『幽霊=危険』な認識しか無い北斗にとって、今回の出来事は衝撃的だった。
――幽霊って危険じゃないの?
ちらりとまた隣を見ると、二人分の笑顔がこちらを見ていた。
悪霊ばかりを相手にしてきた北斗にとって信じ難い光景だ。
――た、確か兇君って幽霊退治する人じゃなかったっけ?
今までの経験から兇の事をそう解釈していた北斗は隣の不思議な光景に、内心首を傾げた。
――ええっと悪霊は悪い事するんであって、その悪霊を兇君たちが黄泉に送って……。
最近やっと理解してきた兇の家の家業を胸中で反復しながら更に首を傾げる。
――で、でもこの幽霊さん、なんか今までのと違う気がする。
そう思いながら、ちらりと隣を見ると幽霊は兇と何やら楽しそうに話していた。
その意外な光景にまた北斗はあんぐりと口を開けて放心する。
そして気づいた。
目の前の幽霊がとても穏やかだという事を。
幽霊には姿があった。
年の頃は50代半ばといった頃か、中肉中背のやさしそうなおじさんの姿をしている。
強いて言えばサラリーマンなのかなと北斗は思った。
オールバックにスーツ。
姿は透けていて色こそは無いが、しかし生きていたのなら部長とか係長とか、そんな役職に就いていそうな人だった。
「ええ、貴方のおかげで大分落ち着きました。」
北斗がそんな事をつらつらと思っていると、隣の話し声が聞こえて来た。
少しだけ余裕が出てきた北斗は兇とその幽霊との会話に耳を傾ける。
「最初は訳もわからずこの場所に居ましたが、貴方のおかげで向うに行く決心がつきました。」
「そうですか、それは良かった。」
「え、何?」
二人の会話に北斗は思わず聞き返していた。
しまったと思ったときには手遅れだった。
思ったよりも大きな声が出てしまった北斗の声は二人の耳に届き。
今の今まで会話に入ろうとしなかった少女に好機の視線が向けられたのはその直ぐ後だった。
「えっと、この人はね一昨年このバーで心臓発作で倒れて亡くなられた方なんだ。」
「はい、ここで彷徨っていた所をこの方が声をかけてくれたんです。」
あの時声をかけてくださらなかったら、と昔を懐かしむ素振りをする幽霊を北斗は不思議そうな顔で見上げた。
「えっと、つまり……」
「うん、この人は自縛霊なんだ」
ズザッ!!
兇が笑顔で答えたその瞬間、北斗はもの凄い早さでブルーシートから飛退いた。
「ど、どうしたのですか?」
突然の少女の奇行に幽霊の紳士が目を丸くしながら兇を見る。
「あ〜いや〜その、彼女は以前悪霊に危険な目に遭ったことがありまして……」
困った顔をしながら説明する兇に、幽霊紳士は合点がいったと手の平をこぶしでぽんと叩いてみせた。
「ああ、それでさっきから私を怖がっていたんですね。」
なるほど、と頷く紳士に兇は「ええ、まあ」と苦笑する。
そして
「お嬢さん、私はただの自縛霊です。あなたには危害を加える気はありませんからどうぞ安心してください。」
そう言って紳士は北斗に向かってにこりと微笑んだ。
そんな穏やかな紳士の言葉に北斗は兇の顔をじっと見つめる。
兇はそんな北斗を見つめ返し、大丈夫だと頷き返した。
その瞬間、北斗の全身から緊張が解けた。
ほっと吐息を吐き出すと、ゆっくりとシートの上へと戻っていく。
その姿を認めて、幽霊紳士は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「しのない自縛霊と一緒にお茶でもいかがですか?」
冗談を交えた誘いだったのだろう、しかし半信半疑の北斗にはそれを受け流す余裕も笑顔で返す余裕もまだなく、ただ引き攣った笑顔で頷くしかできなかった。
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