細い細い三日月が照らす闇夜。
その闇夜の下、空を切る音が何度も聴こえてきていた。
「ちょっ、これは……何というか……」
「く……猛、笑ってないで手伝え!」
耳障りな風を切る音と共に、切羽詰った男の声が二つ。
時折、ごおっという熱風と共に息を飲む気配が伝わってくる。
兇と猛はピンチに陥っていた。
本気を出した悪霊から、息もつけぬほどの攻撃が繰り出される。
ひゅん
白い絹の布の先端が鋭い速さで猛の右頬を掠めていった。
つっ、と流れる血。
そこには細い切り傷が生まれていた。
悪霊の身に纏っていた柔らかなシフォンのワンピースは、今やその場を覆うほど長く伸び先端は鋭い刃物のように鋭利に変形していた。
柔らかくしなやかに空を舞い。
速く鋭く切り裂いていく。
そして彼女の体からは憎悪。
それは陽炎のように立ち昇り熱を孕み暴れ狂う。
兇達を襲い続ける絹の布に纏わり更なるダメージを与えてくる。
「これじゃ迂闊に近寄れないな」
その熱風と鋭い布の動きに兇は小さく舌打ちをした。
「さすがに今回の敵は一筋縄じゃ行かないねぇ。」
兇の呟きに、猛が参ったとばかりに肩を竦めてみせる。
そんな猛にじろりと視線を遣りながら、兇はどうしようかと迷っていた。
近づけない相手には遠距離攻撃が有効だ。
――しかし……。
兇はちらりと反対側に視線をやって、それはダメだと胸中で首を振った。
倉庫の反対側――通路に面した場所に生えていた一本の木が薙ぎ倒されていた。
それはもちろん先程猛が放った攻撃のせいだ。
離れた所からの攻撃は兇にもできる。
しかしこんな所で力を使ったら、木の一本や二本では済まないだろう。
それに、できればそんな方法は使いたくなかった。
猛ならともかく、兇はこんな強引なやり方は好きではない。
悪霊とはいえ元は人間。
今は憎悪に我を忘れてしまっているが、生前は優しい心もあったはず。
哀しければ泣き、悔しければ怒り、人が傷つけば心を痛める。
優しく人を思う気持ちもきっとあったのだ。
しかし何かがきっかけで彼女は傷つきそして変貌してしまった。
もしかしたらそれが原因で死んでしまったのかもしれない。
だからこそこのような姿になってしまったのだと兇は思っていた。
だからこそ見捨ててはおけなかった。
だからこそ助けてあげたかった。
「何故そんなに哀しんでいるのですか?」
兇は攻撃を交わしながら悪霊に向かって叫んだ。
その問いに一瞬、悪霊の攻撃が止んだ。
その隙を逃がさず兇は走り出す。
目を瞠る悪霊。
猛の制止の声がかかる。
しかし兇は止まらず悪霊目がけて突進していった。
彼女の怒りの念の中に僅かに見え隠れしていた哀しい想い。
兇はその心の揺らぎを僅かに感じ、賭けた。
彼女の心の闇を振り払えば。
彼女は救われると。
「兇!!」
それは一瞬だった。
刹那に見せた敵の動揺。
弟が叫んだ言葉に目の前の悪霊は動きを止めた。
そしてわかるほどに変化した顔色。
なぜ?どうして?
と心の声が聞こえて来そうなくらいだった。
その一瞬の隙をついて弟が駆け出した。
弟の突然の行動に猛は慌てた。
危険だと、自殺行為だと、脳裏で警笛が鳴る。
やめろと叫んだ時には遅かった。
制止の声を振り切り、悪霊目がけて駆けて行く弟。
相変わらず詰めが甘いと舌打ちする。
猛は素早く唱えると力を発動させた。
悪霊の元へ兇が辿り着くその直前に、その間で光が弾けた。
「うわっ」
「キャアァ」
同時に聞こえてきた二つの声。
爆風で数メートルも後ろに押し返されながら、兇は顔を腕で防御してなんとか踏み止まる。
そして、風と土煙がおさまったそこには――
傷ついた悪霊がいた。
ぶすぶすと体のあちこちが焼け焦げ、黒く細い煙が何本もその体から立ち昇っている。
陽炎の如く体を包んでいた憎悪の念は今や消え去り、憐れな弱り切った霊がそこに浮かんでいた。
「猛!」
兇はその姿に目を瞠り、背後の兄へと振り返った。
「詰めが甘いよ兇君。」
相変わらずだね〜、と弟の非難の視線を受け止めながら猛は肩を竦める。
そんな猛に兇は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「わかっているだろうけど、あのまま行ったら君、殺されてたよ」
無理心中は良くないなぁ、と茶化すように言う猛に兇の非難するような視線が向けられた。
「だからって!」
「油断は禁物、情けは無用だよ、兇」
顔を上げて己を睨んでくる弟に、兄である猛はそう言って視線を鋭くした。
「あの子は悪霊だ、まだ完全に闇に染まってはいないけど、でもこちらの話は通じない。何度も説得したんだけどねぇ。」
猛はそう言ってまた肩を竦めてみせた。
その言葉に兇は顔を顰める。
猛がこの学校へ派遣されてきたその理由を理解し、兇は益々焦った。
このままでは彼女は消される。
兇は空中に浮かぶ悪霊へと視線を移した。
彼女は余程ダメージが大きかったのか、前屈みにだらりと両腕を垂らしたまま、ぴくりともしなかった。
このまま猛の攻撃を受ければ彼女は消滅するだろう。
――どうすれば……
兇は焦り眉間の皺をさらに深めた。
その時――
ユルサナイ!!
突如、頭に響いてきた声。
爆発する怒り。
びりびりと突き刺さる様な怒りの波長に兇達は振り返った。
先程までぐったりとしていた悪霊が、憎悪の炎を体中から噴き出してこちらを睨んでいた。
真っ黒に染まったそれは、轟々と音を立てて嵐のように彼女の体を包む。
そして――
「私ノ邪魔ヲスルナァァァァァァァ!!!」
悪霊の叫びと共に黒く染まったその炎は、無数の手の形に変化したかと思うと、いきなり襲い掛かってきた。
「きゃあぁぁぁぁ!!」
その次の瞬間、離れた場所から聞こえてきた悲鳴に兇の体が凍りついた。
慌てて振り返ると、黒い手に北斗が捕まっていた。
「コノ娘ガ大事ナンデショウ?」
にたり
驚愕する兇の背後から声が聞こえてきた。
くすり、と悪霊が笑む気配が伝わってくる。
「彼女を放せ!」
怒りも露わに兇が叫ぶと、またくすりと悪霊が笑った。
「ソンナニ、コノ娘ガ大事?」
見下ろす悪霊の顔は無表情だ。
「私デワ、ダメ?」
くしゃりと顔が歪む。
「ナンデ、コノ娘ナノ?」
今にも泣きそうな顔。
「ナンデ、ナンデ?なんで……」
私じゃ駄目なの?
泣いているかのように悪霊が叫ぶ。
つぅ、と赤く染まった悪霊の目から血の涙が流れ落ちてきた。
なんで?何故?信じてたのに……
なんでどうして?愛してなかったの?
なんで何故……あの人は
私を捨てたの?
嵐のように叫ぶ女。
悪霊から噴き出た炎は北斗を捕まえたまま膨れ上がる。
―――――さん!
哀しそうな声が聞こえた瞬間――
北斗の体はその黒い炎に飲み込まれた。
「那々瀬さん!!」
消えた北斗の体を取り戻すべく兇が悪霊の元へと駆け出す。
黒い入道雲のように膨れ上がったそれは、悪霊と北斗を覆い隠していた。
分厚い壁のように兇達の前に立ち塞がるそれ。
兇は駆け寄り厚い壁をこじ開けようとした。
しかし雲のようなそれは掴む事すらできず兇の手をすり抜けていく。
ならば、とその中に飛び込んだが、何かに阻まれて弾き返されてしまった。
「結界か……くそっ!」
どうしたらいいんだ、と黒い壁を睨みつける兇に猛がゆっくりと近づいて来た。
「兇、一刻を争うからね、悪いけど僕のやり方であの悪霊を除霊するよ。」
猛はそう言うと分厚い壁を見上げた。
猛の背丈を遥かに上回るそれは、壁と言うより塔のように空高く聳えている。
その高い高い壁を見上げながら猛は口中で何やらを呟き始めた。
いくつかの印を結び手にしていた数珠を頭上に掲げる。
その姿を兇は苦渋の表情で見つめたまま、手の中にある己の数珠を握り締めるのだった。
『寒い』
最初に思ったのはそれだった。
あまりの寒さに体がぶるりと震えた。
目を開けたそこは真っ暗な闇の中だった。
きょろきょろと辺りを見回すが誰も見当たらない。
急に心細くなって声を出してみた。
「誰か、誰かいませんか〜?」
ここが何処なのかも、今どんな状況に己の立場があるのかも忘れて必死に叫んだ。
「誰か……兇、君……」
ぽつりと呟く。
次に心に浮かんだのは『淋しい』だった。
ひとりぼっち。
真っ暗な闇の中でたったひとり。
北斗はあまりの心細さに己の腕で自分の体を抱き締めた。
小さく小さく縮こまる。
目を開けていても真っ暗な闇しかないのなら、そんなもの見たくないと、固く瞼を閉じた。
きつく、きつく、閉じる瞼。
自分はたった一人。
『怖い』
更に浮かんできたのはそれだった。
ふと、固く閉じた闇の中に何かが浮かんできた。
ぼんやりと霞のように見えてくる光景。
それは段々と色を濃くしていき。
そして輪郭もはっきりとしてくる。
北斗はその光景に息を飲んだ。
そこには――
楽しそうに笑う自分の姿……。
否
あの悪霊が幸せそうに微笑む姿があった。
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