北斗は不思議な感覚だった。
目の前に見えるのは紛れも無くあの悪霊だった。

――でも何か変……。

北斗はなんとなく浮かんだ違和感に首を傾げていた。
目の前に映るのは幸せそうに笑っている悪霊の姿。
表情は明るく血色も良い。
先ほど見たあの悪霊なのかと思えるくらい、目の前の少女は生き生きとしていた。

――もしかして……。

北斗は脳裏に浮かんだ可能性に、目の前の少女を食い入るように見つめた。
そして確信する。

これは”生前の彼女”なのだと。

あの悪霊の生きていた時の姿が何故か北斗の目の前にあった。

「これって……」

北斗はもう一つの違和感にようやく気づいた。
そこに居ると思っていた彼女の姿は、ショーウィンドウに映し出された姿だった。
己の視線の先。
それは鏡に映し出された己の姿を見ているのと同じで……。

――わた…し?

驚愕の事実に北斗は言葉を失う。
そう、北斗の視線は悪霊のそれと同じだった。
何故だか今、自身は悪霊の彼女になっているのだ。
しかも生前の姿で。
驚き固まる北斗とは逆に、ショーウィンドウの中の悪霊は勝手に動いていた。

――え?

その事実に北斗はまたしても驚愕する。
気づけば自分の思考以外は、まったく言うことを聞かないことに気づいた。
腕を動かそうとしても動かない。
足も同じ。
この場から逃げ出したいと思っても体は言うことを聞いてくれず、しかもその感覚が無い。
自分が笑っているという感覚も、歩いているという感覚も、無いのだ。
北斗はまたしても軽いショックを受けながらあることに気づいた。

嬉しそうに歩き続ける悪霊の姿の自分。
その隣に、見知らぬ長身の男性が一緒になって歩いていた。
しかも、その男性の腕には彼女の腕が絡んでいる。
腕を組んで歩く男女のカップル。
それはまるで恋人同士のように北斗の目に映る。

――ま、まさか……。

北斗は、もう何度目になるかわからない事実に、驚きの声をあげるのだった。



『うふふふ、――さん、早く行きましょう!』
幸せの絶頂の如く微笑む少女。
その少女に引かれるままに、恋人である男は笑顔でついて行く。

幸せ 幸せ 幸せ

脳裏に浮かぶのはその言葉だけだった。

北斗は先ほどから流れる光景を固唾を飲んで見守っていた。
今、己の目の前に映し出されているのは、悪霊の恋人である男の姿だった。
少し明るめの短髪。
優しそうな目元。
背のすらりと高い整った顔の男だった。
彼は自分――悪霊の少女に向かって微笑んでいた。
優しく蕩ける様な笑みで。
その男性に少女は何度も『好きよ、愛してる』と囁く。
恋人も同じような言葉を返す。
甘い甘い恋人同士の光景を北斗は食い入るように見ていた。

――幸せそう……いいな、私も兇君と……。

北斗はそこまで考えて慌てて頭を振った。

――な、何考えてんの私ったら!

思わず浮かんでしまった考えに真っ赤になって首を振る。
北斗が内心でわたわたしていると、突然景色ががらりと変わった。



『ごめん、今月苦しくて』

目の前で手を合わせて頭を下げる恋人の姿。

『大丈夫よ、はい今月の分』

そう言って少女はお金の入った封筒を恋人に差し出していた。

『ああ悪いな、後で必ず返すから』

男はそう言うと、またあの優しい微笑を見せながら去って行った。

その光景を北斗は複雑な心境で見守る。

――これって……。

嫌な予感に北斗は呟く。
すると、また景色が変わった。



バシン

突然響いてきた派手な音。
続いてどさりと視界が倒れる。
一瞬床が視界に映ったかと思ったら、景色が振り返り恋人を見上げていた。

「ひっ」

北斗は思わず声を上げる。
見上げたその恋人の顔は、まるで鬼のような形相をしていた。

『金がねえってどういうことだ?あ?』

がくんと視界が揺れる。
聞こえてくる少女の悲鳴。
景色はまた床を映し出し、苦しそうな少女の呻き声が聞こえてきた。

『来週には用意して来いよ!』

罵声の次に聞こえてきた先ほどと同じ破裂音に、今度は北斗も痛みを感じた。
ズキズキと痛む左の頬、じわりと咥内に広がる鉄のような味。
口が切れたのだと判った時には、北斗の視界はぼやけていた。
うっ、うっ、とすすり泣く悪霊の少女の声が聞こえてくる。

――酷い……。

北斗はそのすすり泣く声を聞きながら、己の目頭が熱くなっていくのを感じていた。



そして景色はまた変わった。

――なに……これ……。

北斗はその光景に言葉を失った。
見えるのは薄暗い天井。
その天井からは裸の電球が一つ、ぶら下がっているのが見えた。
ゆらゆらと揺れる電球。
その薄暗い明かりを遮る様に、無数の男の顔が目の前に迫っていた。

『いや、やめてお願い!助けて――さん』

にやにやと自分を見下ろす男の背後に、あの恋人がいた。
悪霊の少女は、その恋人に向かって必死になって叫んでいた。

『んじゃ、お前たち後よろしく』

恋人はそれだけ言うと、重い鉄の扉の向うに消えて行ってしまった。
バタンと虚しく鳴り響く扉の音。
小刻みに震える体。
目の前にはにやにやと己を見下ろす複数の男の顔。

――やめて!!

北斗は思わず叫んだ。
悪霊の少女の叫びと重なる。
その瞬間流れ込んでくる思考。

嫌 嫌 嫌

怖い 怖い 怖い

やめてお願い

助けて――さん!!

頭に流れてくる大量のコトバ。
北斗はその膨大な量に頭痛を覚え頭を抱える。

――痛い……助けて



兇君!!



その瞬間、北斗の視界は暗転した。





気がついたら、ぽつりとそこに立っていた。

真っ暗。

他には何も無い。
暗い暗い真っ暗な闇。
どこまでも続くその闇に、北斗はぶるりと身を震わせた。
先ほど見た光景が脳裏に蘇る。
ぞくりと思わず肌が粟立った。

「なに、なんだったの…あれは……」

ぽつりと呟く。
誰も居ない真っ暗な空間に、その呟きは瞬く間に吸い込まれていった。
沈黙が落ちる。
北斗はまたぶるりと身を震わせた時、声が返ってきた。

『あれは、私……』

その声にどきりとした。
紛れも無いその声は、あの悪霊の少女の声。
北斗は慌てて顔を上げると、目の前にあの悪霊がいた。

「ひっ」

北斗は思わず声を漏らすと一歩後退った。

『あれは……私の生前の姿』

驚く北斗を他所に、悪霊は淡々と話し続ける。

『私……あの後、乱暴されたの』

その言葉に北斗はびくりとする。
無数の影になった男たちの顔が脳裏に蘇る。
吐き気を覚えて口を押さえた。

『悔しかった……悲しかった』

ぽろぽろと悪霊は泣きながら話し続けた。

『愛していたのに……信じていたのに』

ぼろぼろ、ぼろぼろ、大粒の涙が悪霊の瞳から溢れていく。

『苦しかった……彼に捨てられたことが』

涙で真っ赤になった瞳が北斗を捉える。

『苦しくて、苦しくて……生きていけなくて』

じっと北斗を見つめ続ける。



『だから、私……死んだの』



悪霊は淡々と答えた。
北斗はその言葉に胸が苦しくなった。
苦しくて苦しくて、息ができなくて。

引きずり込まれる!

そう思った瞬間、無意識に手の中にあったそれを強く握り締めた。
その瞬間、ちりん、と小さな音が手の中で鳴った。
覗き込むと、それは兇に手渡された小さな鈴だった。
銀色の小さなそれ。
それは北斗の手の中で鈍く光を発していた。

暖かな光。

ほんわりと心が温かくなったような気がした。
苦しかった胸の痛みが和らいだような気がした。

――大丈夫、まだやれる。

北斗は何故かそう思うと、目の前の悪霊を正面から見据えた。
そして、北斗はゆっくりと口を開くのだった。

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